連載第27回
2009年1月13日
壊れかけのラジオ

 時の流れはますます加速し、もうすでにメディアから忘れ去られつつあるのが、昨年の話題の一つではあった某大物音楽プロデューサーの巨額詐欺事件。個人的には事件そのものよりも、事後におけるかつて某の創作した著作物を取り扱う出版・放送各メディアの対応にインパクトを受けました。まずは関係するユニットの最新アルバムが発売・配信が中止されたのを皮切りに、ラジオ放送各社もまた某の関与する楽曲の放送を自粛…などなど。さて、これら各社の対応、どう見ればよいのやら。事情や思惑などによっていろいろな考え方はあるのでしょうが、個人的な立場で言えば、まず音楽自体には何も罪はないと。優劣はあっても「音楽≠悪」である。誰それの作った楽曲を聴くと、何故か無性に犯罪を犯したくなるとか、激しい頭痛や覚えの無い筋肉痛に襲われたりとか、あるいは普段見えないものが見えてしまう…なんてオカルトな作用は無いハズ。確かに歌謡曲やJ−POPなどは、そのメロディが歌詞と密接に繋がって世界観を作り上げているためリスナーへのメッセージ性が強く、詞の中にはもしかしたら特定の人の中に潜在する何かをピンポイントで刺激するような文言が含まれたりすれば、場合によって扇動に繋がるような可能性もあるかもしれませんが(個人的にはそういう類の、例えば応援ソング系とか全く好きになれないのだけれど)、およそ僕のイメージする某の楽曲にそのような歌詞があるようには思えませんし(実際、よく結婚式などで歌われたりするそうな)、まさかこの時代に発禁歌でもないでしょう。そんなこの事件、つつく角度によってはいろいろに話を広げていけるのだけれど、ここでは一斉に某関連楽曲の放送を自粛した「ラジオ」を取り上げます。

 まだ小中学生だったころ、仲間内でラジオの話題が出るとすれば、それはAM深夜にオンエアされていた何々というバラエティ番組だったのですが、ちょうど僕の住んでいたところは非常に電波の入りづらい所にあり、所有していた安物のラジカセに装備された感度の低いアンテナで、AM各局の放送はほとんど受信できませんでした。それに加え当時の僕は洋楽に目覚めたばかり、世界にはこんなにバラエティに富んだカッコイイ楽曲があるのかという驚きもあって、チューニングを合わせるのはもっぱらFM周波数帯、毎週チェックするのも音楽番組のみ、そんなわけで当然、昨晩のAM放送で盛り上がっている輪に入ることはなかったのです。もちろんネットなど無い時代であり、新しい音楽情報の入手先はテレビよりもほとんどラジオに依拠していました。

 子供にとってラジオがまだ宝物だったそんな時代から数十年、いまやテレビも手放して、それでもまだ仕事中のBGMにはラジオ点けっ放しという状況ではあるものの、昨年中頃あたりから突然ラジオ番組のクオリティが目に見えて低下しました。ラジオと言っても音楽番組だけではなく、バラエティやらリスナーとのコミュニケーション系やら多種多様ですが、総じてつまらなくなったのは構成作家を雇えなくなったせいなのか、思えばこの不況、某放送局ではラジオCM枠を買いませんか?という露骨な宣伝も挿入されたりで、およそこのメディアの経済状況は芳しくない様子。そう言えばつい先頃、大手新聞社・TV放送局の収益悪化がニュースになったくらいですから、ラジオならすでにもう…と、ここまで書いて遅まきながら気付きました。上述した某関連楽曲放送自粛の件、当然放送する側も特定の人物の手による音楽が悪質なものを内包していると考えているワケがありません。つまり彼等は、常にリスナーの方を向いているのではなく、それを飛び越えてただスポンサーの顔色を窺っているに過ぎないのではないか。
 理想のラジオの在り方とはどんなものか。僕にとってのそれはひたすらに音楽を電波に乗せて流し続ける媒体に他なりません。ラジオは未知なる音楽との出会いの場であったのです。もちろんただ音楽を流し続けるのなら有線放送やネットラジオという代替メディアがありますから、ラジオならでは、という部分を打ち出さねばいけません。その鍵となるのは、今さらながらDJという存在なのではないか。オンエアする楽曲の選択は全て、各番組担当のDJの裁量にまかせてしまえばよいのです。彼等が熱愛している音楽、新たに発見して今まさに興奮している音楽を、もっとマニアックに語りながら送り出して欲しいと思うのです。すでに終了してしまったのだけれど、以前某局の深夜に菊地成孔が担当していた番組では、まさに彼のより好みで、その時間帯以外ではとてもオンエアされないであろうヒットチャートとは無縁の音楽、例えば演奏時間10分以上になる音楽などをざらに垂れ流していたのがとても痛快でした。もちろんそのほとんどが初めて耳にするような音楽であり、加えて菊地成孔の詳細かつ「偏った」解説も付くとなれば、自然とリピーターになろうというものです。ここで特定のDJの放つ周波数のみにチューニングを合わせるのはただ偏りが生じるだけではないかと危惧される向きもあるかもしれませんが、しかしDJも人の子、ある程度の傾向は示しても、時に予想外の振る舞いを見せたりする興味深いフィルターであり、稀に起る脱線によってさらに発見が加わるのです。

 ここまでの前置きを読むと、本作はラジオに関する映画なのかと思われるでしょうが、まるでラジオとは関係ありません。いや、確かに物語の中盤、左翼思想に傾倒する主人公が自身の親類でもあるマフィアとの対立の最中、ミニラジオ局を開局し、それを政治活動に活用する場面がわずかにあるのです。空き部屋にテーブル、小さなマイクにささやかな送信装置を使い、彼は己の信ずるところを電波に乗せて大声で主張する。その場面が何故か強く印象に残っているという、ただそれだけの事、もちろんネットの無い時代のお話です。

 さて、それではまたラジオの話へ。仮にもし、件のタイミングで音楽に罪は無いと声を上げるような気概を持った局があったとしたら、まさにそういう声を聴きたかったと賛同する人もいたでしょう。特に好きでもない、自分の気に入らない曲が流れていたなら、ただチューニングをずらせば良いだけのこと。しかしそこは大人の事情が、草の根の個人ラジオ局ではないのだから、企業として常に利益を上げ続けなければならないが故、スポンサーの意向に縛られるのは仕方ないと言うのであれば、まさにその部分、将来的に利益を上げ続けていくのが困難であるという点において、電波放送ラジオというメディアは、消えて無くなっても仕方の無いところでしょう。

ひと言メモ

監督:zzzzz(2010年/アメリカ/94分)ー鑑賞日:2011/06/18ー

  • ■放送自粛が始まってしばらく経ってからですが、「音楽に罪はないのにな」って放送中に言うDJも居たりはしたのです。
  • ■今回の結論の部分、収益が下がり続けるという前提で書いています。この先何かしらのどんでん返しがあって、再び広告収入などが増えるのであれば、また放送内容なども活気づいてくるのではないでしょうか。可能性は極めて、低いけれど。
  • ■ちなみに某の楽曲は自分のチューニングには合わないようです。
  • ■災害時の情報伝達ツールとしてラジオはまだ有効です。対してネットはそういう状況にとても脆い。
  • ■昨今流行りの応援歌系がキライと書いているのと、DJがもっと熱く語るべきという主旨が矛盾しているように感じる人もいるかもしれませんが、音楽自体が強いメッセージ性を帯びているのと、DJがマニアックに語るそれは僕の中で明確に区別されています。
  • ■主演のルイジ・ロ・カーショ、非常に強い印象を残す俳優です。この後、立て続けに幾つかの映画の中で見かけました。