連載第37回
2009年2月24日
生きた証

 差し当たって年内、ゆっくりとしたペースで映画感想文を認めていくうち次第に明るみとなる事実なのですが、映画百本なんて大仰なタイトルを掲げた割には、僕はたいして映画を観ていなかったりします(つまり、そのうちにボロが出る、ということ)。鑑賞本数で言えばおそらく「映画鑑賞が趣味です」と、ブログサイトの自己紹介欄に小さく明記してある方々よりも断然少ないのではないか。それは、これまでの人生においてビデオデッキを一度も「所有したことが無い(つまりソフトをレンタルした事が無い)」ことに拠るところが大きいとは思うのだけれど、人生とは言わば割り当てられた限りある時間を如何に配分するかというものだとすれば、今世紀に入る以前までは単に、僕は映画を観る事以外のものに夢中になっていたということです(意識的に映画を見始めたのはようやく’03年からです)。そんなわけで未だ、観ておくべき映画と言われる類の作品もまるで観ていない状態ではあるのですが、例えば本作の監督であるアンドレイ・タルコフスキーの作品も、これまでに『サクリファイス』1本しか観た事がありません。最も知られているであろう『惑星ソラリス』もこれを書いている時点で未見という始末です。しかし本作の冒頭で、この地方に特有なものと思われる針葉樹をゆっくりとカメラを移動させながら捉えるところなど、長編デビュー作にしてすでにタルコフスキーを刻印するものが現れていると感じました。それはやはり「木」と「水」のイメージが想起させるものに違いないのですが、僕には唯一の手がかりとなる『サクリファイス』にもまた、それらの印象が強く刻印されていたのです。
 ところがモノクロ映像の本作の中で、次第により黒く重くなっていく水は、僕に抑え難い全く別の印象も与えました。それは恐怖です。

 学生の頃、友人達と共に山間部へキャンプに出かけた時の事。川岸に寝場所となるテントを張り、太陽の輝きの下、無邪気に川遊びとバーベキューを楽しんだ後、やがて陽も落ちて完全なる暗闇が辺りを支配しました。そこは近くに施設もなく、全く人の手の入ったような雰囲気は皆無、当然トイレも無ければ水道や電気も通っていない、夜が訪れると空にまばたく星を除いてまるで光源が無いという状態。そんな状態に入ってしばらく後、予想外に僕等に舞い降りてきたのは、ただひたすらの「退屈」でした。トランプや雑談にもそろそろ飽きてきた頃、戯れに提案したのは、テントのすぐ横を流れている幅10メートルほどの渓流を向こう岸まで泳いで戻ってくるというもの。日中、十分に川遊びを満喫したこともあって、川の形状(最深部は3~4メートルくらいあるでしょうか)や流れのクセなどは把握しているつもりですが、ただ往復するだけの事をここで極めて困難にしているのは、その周囲を完全に覆い尽くしている「闇」でした。日中は鮎が手の届きそうなところを泳いでいたのとはまるで別物の姿を見せている黒い川、真っ暗な場所で手がかりとなるのは深く流れの早い水の出す音だけという状態、果たしてどこまで泳いでいけるのか、言い出しっぺである僕はとりあえず声をあげながら一歩一歩、川の流れの中を進んでいったのです。やがて身体全体が水の中へすっぽりと沈み、平泳ぎで数メートル進んだとき、まったく唐突に僕を襲ったのは、これまで経験したことのないようなとてつもない恐怖でした。僕一人が簡単に隠れてしまうほどの深さを持った黒い水。そこにどんな異様な生物が潜んでいて、突然大きな口を広げ僕の両足を捕えるか分からない、あるいはもっと恐ろしい事に、突然相手と10cmほどの距離になって目と目が合うかもしれない、いや、この文章を読むだけでは滑稽に思えるかもしれないけれど、それは根拠の無い恐怖とは言え確実に僕を狙い撃ちしたのです。もしかしたら古く遠い記憶に刻印された恐怖が伝達されたものかもしれませんが(単にテレビで観た『ジョーズ』の印象かも)、川の中心にも至らないまますぐUターンを切り、こんなバカな肝試しに付き合っていられない(自分が言い出しっぺにもかかわらず)と猛スピードで元の場所へ引き返しました。この時の恐怖は、今も鮮烈な印象を残しています。

 揺るがぬ決意の下、やがて再び、腰の辺りまでの深さのある暗い夜の沼の中へ、たった独りで自ら進んでゆく主人公の少年は、その行為の割にはどういうわけか非常に現実感が希薄です。子供を主人公にしている映画ではあるものの、観る側が少年に感情移入できない理由は、彼が何かしらの匿名性を帯びている、つまり少年個人の問題(例えば復讐心)に注目しているようでいて、実は彼に降りかかった状況の全体が持つ問題に着目させようとしている結果かもしれません。個人の印象(パーソナリティ)を希釈する代わりに、それを内包する世界の輪郭を明確でリアルな像として現そうとする手法は、社会を俯瞰する態度として当たり前とも言え、むしろここでは、少年の将来をいくばくか思いやる大人たちが見せる振る舞いの方が、個人として己の欲望に忠実だったりして、より「生きている・実在している」という強い印象を放っています。しかし、美しい容貌を持つにもかかわらず、それまでまるで存在感の無かった少年は逆説的にも、最後に明らかにされる、官僚的な規律さで残されたある「記録」によって、確かにそれまで「生きていた」ことがようやく実感を伴い、裏付けされるのです。

ひと言メモ

監督:アンドレイ・タルコフスキー(1962年/ソ連/95分)ー鑑賞日:2008/08/09ー

■生きている人の年金記録をテキトーになおざりにしていた社会保険庁ですが、役人はたぶん、その人が死んだという申請であれば、忘れずしっかりと記録するでしょう。
■今後露呈するであろうボロに関しては、どうぞ何なりとご指摘していただければ、こちらとしても非常に助かります。
■すでにボロボロである、という意見もあったり。