連載第38回
2009年2月24日
モノクロームエフェクト

 すでに足下がふらついているのですが、そもそも当サイトのメインコンテンツは「まわるフリフリのフリ」だったはず。その一度聞いたら忘れられないフレーズを冠したコーナーは、主として写真をただ並べていくだけという、まあ、ありふれた写真日記みたいなものにしようと考えていたところ、どういうわけか現時点で映画百本の更新数の方が多くなっています。その「まわるフリフリのフリ」の第一回、記念すべきサイトリニューアル最初の投稿は、オールナイト上映されていた『WALL・E』を歌舞伎町で鑑賞した帰り道に撮ったものにしたのですが、その際、素材をページに埋め込むに当たりアレコレと画像を加工している中で、さて、これはカラーのままにした方が良いのか、それともモノクロにした方が良いのかというところでかなり悩みました。そんなわけで長い時間、カラーコレクションを施したものと、潔く色を抜いてモノクロにしたものをモニタ画面に並べてじっと見比べたり、実際にページへ埋め込んで印象の違いを比較したりしていたのですが、結局、そこで選んだのは一部を除いてほぼモノトーンな雰囲気に。たまたま選んだ写真は、カラーで見せるよりモノクロで見せた方がより輪郭が強く出るように感じたのですが、おそらく、写真学校などで授業を受ければ、モノクロにする意味や作用について詳しく知ることもできるのでしょうけれど、その方面が勉強不足の僕は意味など考えず、ただ見た目と気分を優先したという次第。

 今世紀に入ってから撮影された本作が全編モノクロ撮影されている理由は、おそらく主題となった題材の時代性(50年代)を強調するためにあるのだろうけれど、果たしてそれが本当にその時代を模している事になるのかと言えば、少々疑問が残ります。確かに当時のテレビが映し出す画面はモノクロだったかもしれませんが、それを取り囲む周囲の風景までモノクロだったわけではない、自分の幼かった頃を思い出すにしても、当時の記憶に限って色彩が取り除かれた灰色の風景が想い出されるわけでは無いのですから、劇中にあるモノクロテレビ以外もモノクロであるのは、表現として間違っているのではないかと。もちろん、当時は映画自体がモノクロだったのだから、その時代の映画を撮るならモノクロでの撮影もあり得るのではないか、という反論も想定できるのですが、それも何となく論点がズレているように思えます。
 そういった根本的なところ以外に、本作の映像はモノクロでありつつも、まず何より画が極めて美しいという点が異質です。いくらその時代を模写するとは言え、機材もろとも当時のものを探してきて使うわけには行かないでしょうから、今の時代の機材を使うとなれば必然、ホコリなどとは無縁のコントラストの効いた、輪郭の際立った上質な画が展開するわけです。それに加えもう一つ、カメラ自体の非常に滑らかな動きも特徴として挙げられます。ここには、当時では成し得なかったスムーズな移動撮影がようやく可能にするカメラワーク、分かり易い場面で言えば、本作ではジャズシンガーの歌う場面が幾度か流れるのですが、そこで見られるスローなカメラの動き方などはまさに現在のそれ、いわばプロモーションビデオ的な上品な画の見せ方が、当時のそれとは全く異なるのです(例えばシュープリームスなどを捉えたモノクロテレビ映像など思い起こすと分かり易い)。この上っ面の上品さ、いわば勘違いによって、辛うじて50年代に浸っていた気分が一瞬にして醒めてしまう。仮に画質の面で当時と今が同じクオリティであったとしても、まだ開発途中の洗練されていないカメラワークが語る表現の「古さ」は今の世代にも感じ取れるはず、たまに70年代のフィルムを見て思い知らされるのは、自由度の低い窮屈なカメラの動き、かつ安定性の欠いた揺れだったりします。まさかここでカメラを「支えている器具」について思い巡らせるとは!

 しかしながら、ここで本作の画がモノクロである以上に、もっぱら時代性を強調するに貢献しているのは、実は主人公等が絶え間なくくゆらす煙草の煙の方ではないでしょうか。今となっては衝撃的とも言える喫煙しながらのテレビ生中継、それはかつて電車内にも喫煙用の灰皿があった時代を覚えている僕のような世代にとっても、かなりインパクトのある画になっています。さらに言えば、白い煙は時代性を表す以外にも、登場する人物たちの緊張や、あるいは弛緩といった「気分」を代弁していたりする。放送本番前のコントロール・ルームに立ちこめる煙、高揚する気分を抑えるため両の鼻の穴から噴き出される煙(何故か懐かしさを覚えます)、一大イベント終了後の和やかな場において上方へ次第に薄れていく煙などなど、ともすればこれは煙草の煙がそこで演じるための映画とも言えるほど。もしそう捉えるとすれば、本作がモノクロであることはむしろ、白い煙を黒い背景から際立たせるために貢献しているとも言え、あるいはその高画質なカメラで映し出されたモノクロ映像の中に吐き出された紫煙は、その画に適度な「汚れ」を付加しているとも言え(音楽でも全体の調和を取る為、故意にディストーションを加えるように)、今となっては世間に疎まれて久しいそれらの存在理由は、そんな形でこの映画の中に見出せたりもします。

 さて、いつものように本筋とはまるで関係の無いことを書き連ねてきましたが、それではこの映画を個人的にどう思っているのかと言えば、実は主題共々、件のジャズソング演奏場面を除いて案外気に入っていたりします。「はしゃいでいる人間」や「自分を探している人間」が出てこないのも好みだし、何よりも、もはや存在意義の面で没落寸前のメディア(ここではテレビ)に対して叱咤激励しているところに同調してしまうのはラジオの場合と同様、僕は単純な人間のようです。

ひと言メモ

監督:ジョージ・クルーニー(2005年/アメリカ/93分)ー鑑賞日:2006/09/09ー

■まあ既にテレビを手放して久しい僕が、今さら何を言ってもって感じですけどねぇ。