連載第39回
2009年3月8日
禁じられた色彩

 殺意。およそ正常な人間で、尚且つ余程世間離れした日常を送っていない限り、程度の差こそはあれど、人生の中で誰しも一度は抱く欲望ではないでしょうか(例えば極度の空腹時、丸々と太った鶏を見たら殺して食べたくもなるでしょう)。そこに至る経緯も特に複雑怪奇であるわけではなく、その理由のほとんどは大雑把に括ることが出来てしまいます。本作で主人公が殺意を抱くことになる要因と言えば、ある女性に抱いた好意がポッキリと折れてしまった…ただそれだけ。ありふれて平凡なよくある話、映画含む様々なフィクションの世界と、何よりも現実に事件となった話をまとめてしまえば、殺人に至る経緯を描いたドラマなど星の数ほどあるはずなのに、では、そんなバリエーションに乏しい動機による行為をモチーフにした映画が、どうしてこれほどまでに製作されるのか…とは、まあここで問わないとしても、動機はどれも容易に分類出来る同じようなものである中で、それぞれが他の作品と差別化するのに貢献しているのは、たとえば「まさかこの人が」というものだったり、あるいはその描き方(斬新なカメラワークとか、編集の妙とか)だったり、あるいは特定のジャンルではその奇抜な手段だったり、つまりは表層的なところでのアイデアによって既存のものからの更新を試みているわけです。

 既述の通り、いわゆる失恋がきっかけとなって殺人におよぶ主人公を描く本作で、僕が注目したのは、前回取り上げた『グッドナイト&グッドラック』に続き、ほぼ全編モノクロ映像で描かれているというところだったりします。何故モノクロなのか、確実なのは雰囲気とか気分で選択されたのではないということ、ここにはそうすべき積極的な理由があったはずです。思うにそれは殺人を犯す主人公、住田雅清の外観によるものではないか。

 僕は一般的な男子が示す傾向に違わず、ごく普通にメカの類が好きだったりするのですが、それなりに審美基準があって、所謂「かわいいメカ」や「彩色の派手なメカ」の類はいくらそれが実際に高性能で有益であったとしても、確実にお気に入りリストから除外されます。つまり所有欲が刺激されないのです。例えば最近の例で、当サイトに馴染みの在る分野で言えば米ヒューレッド・パッカード社のNetbook「HP Mini 1000 Vivienne Tam Edition」は、一体これの何処に所有欲が刺激されるのか、全く理解できません。普段贔屓にしているApple社もかつて同じようなミスを犯した事が在って、誰もが記憶しているであろうiMacの「FlowerPower(花柄)」と「Blue Dalmatian(水玉)」は僕をして「血迷ったかApple」と言わしめたほど。しかし今ではほとんどの製品が白か黒、あるいはアルミ素材によるモノトーンな雰囲気に統一され、会社ロゴからも遂に色彩が取り除かれました。
 それとはまた別の分野、楽器にも同じような傾向を求めるふしがあって、例えば電子楽器などがそう、黒やアルミ素材によるシルバーなどのシックな色使いによる外観を持った機材が好きで、最近ではTENORI-ONやRolandのV-Pianoのようなデザインがお気に入り、ロック・ギタリストに見られるような「まず派手な見た目ありき」という欲求は全くありません。しかし、余談ですが、その電子楽器分野にも最近の若者の趣向を考慮しているせいか、無意味に派手なグラフィックを取り入れている製品も見受けらたりします。例をあげればRolandのV-Synth。それが装備している液晶モニタ内で繰り広げられるおよそ「下品」と呼んで差し支えない操作画面中のグラフィックは、音をゼロから作り出そうとする意欲を端から削ぐことにしか貢献していません。製品自体の持つポテンシャルは極めて高いのに、これは甚だ残念。ファームウェアのバージョンアップで即撤去してくれるよう再考願いたいところです。このように、機械は動くものであれ、静かに置かれるものであれ、基本的に色彩くらいはあまり主張せず静かにいて欲しいというのが僕の趣向ですが、では、それと本作が一体どう関係あるのか。

 住田はその著しい身体的制限によって、機械と同一化することを余儀なくされている人間、移動はもちろん、他人との会話もトーキングエイドという機械を介してでないと成り立ちません。機械と切り離すことが出来ない存在、常に機械と共にある存在、いやそれは極論すれば、すでに機械であるかもしれません。殺人を目的として生きる存在に変貌したのに、高機能ではあるものの、未だ洗練されてはいない拙い挙動を示す機械を「色彩付きフィルム」で捉えた途端、誤解を恐れずに言えば、それは甚だ滑稽でしかない、まるで「おもちゃ」のようにしか見えないはず。物語の設定上それは当然逆効果にしかならないのです。だからこそ、柴田監督はここから一切の色彩を取り除くことにしたのではないか。その結果、モノクロ映像は住田という殺人機械を、それをとりまく世界と違和感なく同居させ、さらには住田の持つ鋭い眼光をビジュアル的に際立たせることにも貢献。一切の色彩を禁じる、本作における監督のこの判断は全く間違っていないのです。

 ところで実は、全編ほぼモノクロである本作も、住田がスクリーンから除外されたラストで一瞬色彩を取り戻すのですが、その光景がまるで「おもちゃ」のように見えるのは、ここまで書き連ねた感想文の根拠を裏付けるかの様、もし本作を観る機会があれば是非注目しておいてください。

ひと言メモ

監督:柴田剛(2004年/日本/83分)ー鑑賞日:2008/01/03ー

■参考までに主演の住田雅清氏(役名も本名に同じ)のインタビュー記事をリンクしておきます。
■音楽はworld’s end girlfriend。モノクローム映像とうまくマッチングしてました。
■メモによると、これを映画館で鑑賞したのは’08年のお正月でした。