連載第57回
2011年5月2日
とある科学の…

 今となってはもうずいぶん昔のような昨年の話なのですが、第30回ゴールデンラズベリー授賞式に、同最低主演女優賞を受賞したサンドラ・ブロックが出席したというニュースを聞いて、かの国の映画産業における「バランス感覚」を羨ましく思いました。業界関係者のみの投票で決まるアカデミー賞に対し、一般市民も低額の会費を支払うだけで投票出来るというこの通称ラジー賞の現場の雰囲気がどういうものなのかは授賞式自体の映像を見たことが無いのでよく分からないのですが、トロフィーを受け取るためにわざわざセレブな女優が赴くのですから、最低の映画を糾弾する為だけに集合した輩の緊張感漂う、殺気立った空気に充満したような場所では無いはず、聞く所によれば女優の登場に会場はスタンディングオベーションで歓迎したとの事、罵倒して扱き下ろすだけの単なる好き嫌いの表明に過ぎない非生産的なネットの書き込みのような類では無く、「最低」と公言することによって逆にそれが地場映画産業の支えに繋がってゆく…そんな愛すべきイベントなのだと広く認識されていることが分かります。そもそも、優れた芸術作品に贈られるというよりは当たり障りなく広く全世界の消費者に推薦出来るような「良く出来た作品」に与えられるのがアカデミー賞という印象、それを模して各国それぞれに○○○アカデミー賞と呼ばれるイベントが開催されるのですが、しかしその対立項として「こんな映画を作っちゃうなんてイヤ〜ん恥ずかしい最低!」をおおっぴらにイベント化してしまえる度量というのはそう簡単に真似出来ない様、アメリカ映画産業の強さはこういう所にあるのでしょう。とは言え、業界人にそこそこ良く出来た作品と見なされる作品と、市民感覚で最低と見なされてしまう残念な作品のどちらにも引っ掛からなかった幾多もの映画の中に、真の優れた作品と救い難い醜悪な作品が埋もれているに違い在りません。
 さて、話を戻してブロックが躊躇せず最低主演女優賞を受け取りに現れたという件、ネガティブキャンペーンもキャンペーンのうちとメディアへの露出を狙っての事と考えるのはごく当然なのですが、そもそも女優賞とは如何なるものなのか。良い・悪い作品に出演したからこその女優賞なのか、あるいは真っ当に演技力や表現力そのものが良い・悪いからなのか。もし後者だとするとブロックは同年の真っ当な方のアカデミー賞でも『しあわせの隠れ場所』で主演女優賞をゲットしているのですから「主演女優賞」自体の存在意義が根底から揺らぐことになります。そう言えばかつて『キャットウーマン』で最低女優賞をゲットしたハル・ベリーもラジー賞授賞式に出席したことが話題になりましたが、彼女もそれ以前に『チョコレート』でアカデミー賞の主演女優賞を獲得していることを考えると、どうやら演技力そのものは問われていない、つまり出演した映画の出来映えに左右されていると言えます。するとブロックやハル・ベリーは「映画は監督のもの。作品の出来が良い悪いかは、私達には関係がない。とどのつまりは監督ただ一人の責任にある」と考えているのかもしれません。ではしかし、そこで監督の言い分としてはどうなるのでしょうか?
 映画そのもの、作品自体が最低と評された場合、ただ企画を映像にまとめ上げるために雇われただけの職業監督としては「渡された脚本が最初からその程度のクオリティなのだから仕方ないだろう」という反論も予想できるのですが、そうなると一体責任の所在は何処にあるのか分からなくなってきます。しかしそんな問い掛けなど端から封じ込めるように、この第30回ラジー賞に投票した一般市民は情け容赦ない判断を下したのです。

最低映画賞→『トランスフォーマー/リベンジ』       
最低監督賞→マイケル・ベイ『トランスフォーマー/リベンジ』
最低脚本賞→『トランスフォーマー/リベンジ』       

 他人の意見など気にせず、先入観無しに作品を鑑賞する。日頃僕もそう心がけるよう努めていますから、前作では残念な印象を残していたもののフラットな気持ちで当日臨んではみたのですが、いやはや退屈なストーリーと映像に付き合わされているなと感じたのが正直なところ。しかし上述したようにその後のラジーで見事三冠達成しているということは、少なくともアメリカ映画愛好家達の中には「コレを最低と認める度量を示さなければ我が米国映画産業の明日は無い」という良識、いや判断力が残っていたのでしょう。忘れてならないのはこの映画は興行で大成功を収め(これはむしろ一般に記憶されていると思う)、そこで得た莫大な利益をまた映画産業に還元しているという事実。たとえ作品自体が最低だとしても産業全体に貢献している側面があるからこそ「最低」だと公に指摘可能なのです。

 さて、他人の評価はさておき自分なりの感想を簡単に。上映時間も2時間を過ぎ、ほとんど映画自体への興味を失いかけていた時、ピラミッドを破壊しつつ頂上によじ登るロボットに向けて「レールガンを打て」とジョン・タトゥーロが米軍空母艦長に命令します。久々に聞いたそのレールガンという言葉、初めての出会いはもうかれこれ20数年昔、まだ学生の頃に読んだウイリアム・ギブスン著『カウント・ゼロ』です(小説内ではレイルガンと表記)。競合企業から優秀な頭脳をヘッドハントするオペレーションに参加したターナーが本来捕獲すべき男の代わりに、その娘アンジイを小型飛行機に乗せて現場から逃げ去るその背後で空が白く光る。今のは何だとの問いに飛行機搭載のコンピューターが答える。センサは爆発を示している、規模は戦術核弾頭、しかし電磁パルス無し、爆心地はわたしたちの出発点…と。のちにターナーの兄から、それがレイルガンだったらしいということ、モール跡全体が吹き飛んだ(証拠隠滅)こと等が知らされる。小説では事後の情報のみで具体的な記述は一切ないのですが、それが余計に読み手の想像・妄想を掻き立てました。一体レイルガンって何だ、と(詳しくはココココ→カウント・ゼロの項目参照)。
 そしてスクリーン上でいよいよ空母からせり出したレールガン砲台は、見た目に何か違うよなぁ…と違和感を覚えつつ次のアクションに期待すると、超音速で射出された弾丸はあっという間にピラミッド上のロボットを貫通、まあ性質上それは正しいのですが、その直後の描写も地味で何だか…エンターテインメント映像表現上の爆発は外連味も合わせデザインで決まると考えている僕はまるで満足する事が出来ず、ちょっと残念な結果となりました。

 以上を踏まえ、前回に引き続き今回もまた指摘すべき重要な点はただ一つ、マイケル・ベイ監督はやはり「オタク」ではなかったということです。

ひと言メモ

監督:マイケル・ベイ(2009年/アメリカ/150分)ー鑑賞日:2009/07/01ー

■さすがにもうトランスフォーマー「3」は観に行かないと思います。
■最低!って言える日本を目指したい。