まわるフリフリのフリ
FLFL
放談ラジオ ― 連載第24回

その場所に立ってみること:沢木耕太郎「キャパの十字架」

2012年12月24日

 これを書いている今からちょうど1年前の夜、J-WAVEの深夜放送『沢木耕太郎 〜ミッドナイト・エクスプレス 天涯へ〜』をいつものように聴いていました。この番組は年にたった一度、クリスマスの夜だけに生放送される特別番組なのですが、何年も前にスイッチを入れていたラジオから流れていたのを偶然耳にし、そしてまた年が変わって気がつくとその夜に居合わせて偶然聴いていたりして、実はこの番組が始まったのはいつなのかも知らないのだけれど、毎回興味深いエピソードを聞くことが出来、偶然に偶然が幾重にも重なって毎年楽しみにするようになってしまいました。その1年前の放送は「カメラ」にまつわるエピソードが多く、今も覚えているのは、(うろ覚えだけど)とある外国の街でカメラを持って立っていたら老人に話しかけられ、カメラを渡すとパシャリ!と一枚撮って去っていった、フィルムを現像してみると果たしてそこには見事な構図で切り取られた一枚が写っていた…。ナビゲーターの沢木耕太郎は「その一枚を自分が撮った作品として見せることにしている(笑い)」というお話。とても印象的でした。

 その他にも風変わりなエピソードが朧げながら記憶に残っていたりしました。例えばある雑誌をあちこち回って探していたんだけれど(あちこち、と言っても近所の本屋を巡っているのではなく、パリからニューヨークまで世界を股にかけた本探し)何処にも無くて、何となくアマゾンで検索したらすぐ見つかった、とか。僕は、雑誌1冊を探すのにわざわざ諸外国を回るとは、なんて酔狂なんだろうと思いました。
 そして自身の宣伝もかねて、今ロバート・キャパの有名な一枚「崩れ落ちる兵士」について、実はそれはキャパの作品では無いのではないか?というノンフィクションを書いています、と語ったことも覚えていました。

 …が、実はそんなこともすっかり忘れていたのです。朝、満員の通勤電車に揺られながら何となく見上げた先にぶら下がっていた文藝春秋の車内中吊り広告に「キャパの十字架」の文字を見るまでは。

フレームの外に

 堀江敏幸『燃焼のための習作』を読み終えて、さて今年最後の読み物はどれにしようか考えていたところ、ちょうどよいタイミングで出現した「キャパの十字架」。ここだけの話、沢木耕太郎の職業が作家・翻訳家であり、彼のファンである多くのリスナーが最も影響を受けて自分達も諸外国へ旅することになったという『深夜特急』という一連の著作があるということも、偶然を重ねて聴いてきたラジオ番組を通してようやく知った次第。さらに告白すれば、彼の著作はこれまでただの一冊も読んだことが無いのです。今回、この『キャパの十字架』が初の沢木作品ということになりました。

 問題となるキャパの代表作「崩れ落ちる兵士」についてググってみると、それがヤラセなのではないかという議論がずいぶん昔からあることは瞬時に知れます。実際、ヤラセなのか否かという疑惑については、作品冒頭から十数ページを読んだだけでほぼ間違いないと読者に思わせるいくつかの推測が紹介されているのですが、ではこの後に続く百ページは一体何のために費やされているのか。そこで改めて1年前に聴いたラジオの内容の記憶を掘り起こしてみると、彼はこの1枚が演技かどうかということではなくて「キャパ自身の手による作品なのか否か」ということに注目していました。一体誰がどんな状況で撮ったのか、ヤラセ疑惑のさらに外側にある事情を巡る考察が本作品のメインになっているのです。詳しくは…続きを読む。ここでのネタバレは無しです。

 さらに読み進めていくうち、上で紹介した1年前のラジオ放送での断片が次々に繋がって一つになっていくのだけれど、著者は寄せ集めた資料から推測出来る物語をただの情況に過ぎないとしてさらに疑義を立てます。僕はそれをとても好感しました。そうした自分の推論へ向けた疑いの先に当然の成り行きとして、著者は「カメラを持って、その場所に立ってみる」のです。まるで松本清張『砂の器』で主人公の刑事がほんの僅かな手掛かりから日本の各地へ赴き、実際にその現地の空気を読もうとするように、です。

 最近、映画を観ていてそこに何とも言えない空間が突如「拡張される」ダイナミズムに敏感に反応するようになりました。例えば今年鑑賞した作品で言えば『ドラゴン・タトゥーの女(フィンチャー版)』がそう。主人公の男が1枚の写真を手掛かりに、失われた女の視線を追って現場に赴く。不思議なオーラを放つタトゥーの女の協力もあって、失われた女の視線はその先にあるモノと結びつき、それまでは単にその瞬間を切り取っただけだった二次元の写真から「空間」を生み出す(この瞬間は身が震えるほど感動しました)。写真と空間の関係で言えばその逆も然り。『砂の器』では事件の真相を追う男が現地に立ってみることによって「1枚の写真」を発見することになるのです。

 改めて強調しておきたいのですが、個人的にはカメラや写真にまつわるエピソードの数々…と言った物語化(テキスト化可能なもの)に然程興味を持っているわけではありません。とかく構図の妙に捕われがちな写真だけれど、その対象と、撮る者の視線が繋がった時に爆発的に広がる空間の得も言われぬダイナミズム(二者の関係によって予め存在する静的な空間にではなくて、空間が勢いよく拡張する際の動的なものへの関心です)により強く惹かれつつあります。しかし僕はまだそれをどう言葉で表現してよいのか分からないところで立ちつくしています。


 しかし岡本太郎って何処にでも出没するな。全く意表を突いて唐突に文字に出てきたから吹いた。